2013年2月17日日曜日

新しい技術が誕生してから、浸透するまで


新しい技術が誕生してから、浸透するまで


新しい技術が誕生してから、
それが一般の人々にまで浸透するまでに

時間的なギャップがあることが多い。

そのために、新しい技術は、
印象の上では異端の事物であるように見えることが多い。


そのために、世代的に上の人々が、
若い人々が当然のように新しい技術を
使いこなしているのをみて、
いろいろな理屈をつけて批判を
することが多い。


しかし、実際には、
上の世代の人々も若いころは同じように、技術の先端に対して
非常に敏感な感性を持っており、

ましてや、彼らが当然のように使用しているあらゆる道具も
また、その前の世代にしてみれば、ハイテクそのものだったのだ。


自動車や電話だって、
今では親の世代も祖父母の世代にとっても、

まったくハイテクではないが、
そのさらに前の世代から見れば、
驚くべき発明品だったのだということを忘れてはならない。

小市民に正義があって欲望がないわけではない


小市民に正義があって欲望がないわけではない


「ミンボーの女」は伊丹十三が監督した
社会派の娯楽作品で、完成度の高い脚本と、
テンポの速い展開、そしてなによりエクスプロイテーション
的な娯楽要素に満ちた作品である。


この作品では、ヤクザの恐喝と戦う
普通の人々の奮闘を描いているが、
ここでは悪役はヤクザだけではない。


この作品に登場するすべての小市民が
みな平等に下世話な欲望を持って躍動しており、

それで足元をみられて破滅したり、あやうく足元を
救われかけたりと、奮闘する。


そうしたおかしみを持った人々の姿を、
作り手は冷静に客観しているようにみえる。

作品としてはそれがひとつのユーモアとなっているが、
観客としてはそれをずっと見ていると、
まるで我がことのように背筋がぞっとすることもある。

重要なテーマを扱えば傑作ができるわけではない


重要なテーマを扱えば傑作ができるわけではない


「華氏911」は、「ボウリング・フォー・コロンバイン」で
名をはせたドキュメンタリー・ルポルタージュ映像作家の
マイケル・ムーアの次作で、

2001年9月11日の同時多発テロ事件と、
それ以降のアメリカの世界戦略の展開の欺瞞を
徹底的に暴いた問題作だ。


ムーアはこれまでどおりアポなし突撃スタイルの取材方法で
次々とアメリカにはびこる欺瞞を明らかにしていくが、

途中で悪ノリしすぎて
ほとんどただのイタズラと化している
ネタも散見されるのは、ある意味これまでの作品どおりである。


しかし、全体的なイメージは
前作よりはかなり抑制されたマジメな雰囲気のもので、
ある意味では普通のドキュメンタリー映画である。


この作品はカンヌ映画祭の最高賞を与えたのは
タランティーノのやりすぎた部分だった気がする。

自分自身が変化させられてしまうのが楽園


自分自身が変化させられてしまうのが楽園


「愛人 ラマン」はマルグリット・デュラスによる
ベストセラー小説で、後に映画化もされて大ヒットした。


この作品ではデュラスのベトナム滞在時代の
少女時代をモデルとして、
半自伝的な作品として仕上げている。


ヨーロッパ人特有の独特のコロニアリズム的な
視点を持った作品だが、

もレイシズムとしての効果だけを指すものではなく、
むしろそれはある種の文学的様式美とも言うべき
楽園願望でもあるのだ。


小説ではそこまで強調されて
描かれているとは思われないが、

主人公の白人の少女が中国人の富豪の息子を、
言葉ではののしりなが心の奥で愛していたことは
間違いないと思う。


こうした価値観が倒錯する独自の空間が、
東洋というヨーロッパ人から見た異郷に
仮託して描かれているのが本質だ。